六角堂が消失

岡倉天心は29歳で東京美術学校校長になり、8年後には、弟子に裏切られ、校長を解任させられ、北茨城の五浦海岸に住居と六角堂を建てています。五浦は歴史的にもひかれる所でした。天心に賛同し、横山大観、下村観山、菱田春草などが、日本美術院の創立に参加し日本の美術史にも、大変価値ある場所となっていたからです。一度は訪れたいと願っていたのだけど、『六角堂が消失』の記事を、最近ひょんなことから見ることになって、驚き、蒼白気味です。北茨城は地震の震源地に近いし、津波の被害もあったことも知っていましたが、六角堂の話題は聞いたりしなかったため、無事だと勝手に信じていたので、ショッキングでした。岡倉天心と言う人ほど、カリスマという言葉があう人はいないと思われます。彼をアジテーターと言う人は、その情熱と激情について行けなかったのだと思います。芸術家が発狂するのは立派だと、新文学で有名な作家も言っているように、天才は、なかなか一般人には理解出来ないところもあるでしょう。
彼が亡くなる直前まで、『蓮の宝石の人』とよばれたインドの恋人との、手紙のやり取りは、とても詩的な感じがします。病が酷くなり、天才が人になっていくようすが、垣間見れます。

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